とあるロックスター、続・悪人論、金原ひとみについて
怒涛の9月が終わろうとしている。歌手としては名古屋に行って、代々木NARUに初出演して、関内では松本隆特集で日本語の曲と向き合い、神楽坂にも出演2回目だった。講師としては本格的に英語講師業を再開、同時に日本語講師業も開始した。おかげさまで、リスナーの方もスチューデントの方もじわじわと増えて来ている。新約聖書には「求めよ、さらば与えられん」と書いてあった。
手術後、私は別世界に降り立つのだと思っていたけれど、本当にそうなった。何もかも、認識が全てなのだ。別世界に降り立つのだと決める、そして本当に降り立つ。私は今何にも悩んでいない。悩むのをやめると決めたからだ。また悩みたくなったら悩むのだと思う。日々いろいろな出来事は起こる。でもそれを悩みであると認識しない。ただ「出来事が起こっている」もしくは「どうするべきか考える対象」だと思う。悩みではない。量子は観測者の認識によって存在の状態が変わるのだと量子論も説明している。量子は波と粒子の性質を併せ持つ。意識は波だ。アントニオ・カルロス・ジョビンは正しい。
どんな経緯で発見したのか覚えていないのだけれど、この方のnoteが面白くて更新される度に読んでいる。
https://note.com/keigosakatsume/
この方はたぶんロックスターで、もの凄い眼光と筆力で言葉を紡ぎ、私の憧れの海際に居を構え、要請があればどこにでも赴き、人々を(たぶん主に女性、でも性の区分けなど設けていないに違いない、ただ色気も凄いので磁場が歪むのだろう)癒し、鼓舞し、叱咤激励し、慰め、生きている。坂爪さんはおっしゃる、現実を見ている場合ではないと。あまりにもそのとおりすぎる、私たちが現実と認識している世界が幻想で、私たちが幻想と認識している世界が現実なのだから。坂爪さんはこうもおっしゃる。お姉様から受けた薫陶として、「バレない悪事は悪事じゃない」「挑発はするものであって乗るものではない」「感情が揺れた時は笑え」。あまりにもそのとおりすぎる。素敵なお姉様をお持ちである。
初めてお会いしたAさんはとても良い人だった、とBさんに伝えたところ、Bさんは、いや、でも出会ったばかりでその人の裏まではわからない、悪い人の可能性だってある、と言った。私は思う、もちろん可能性は何だって無限大だ。でもAさんがもし裏で巨悪の限りを尽くしているめちゃくちゃ悪い人だったとしても、一生私に自分は良い人だと思わせることができたのなら、やはりAさんは「良い人」なのだ。他人から悪い人、と思われるよりは、良い人、と認識しておいて貰った方が、どう考えても生存戦略としてよいだろう。良い人の方が周囲からの支援を受けやすいし、自分でも自分は良い人で他人に対して善行を行うような人間である、と思っている方が、自分は悪人で罪人なのだ、という罪悪感でいっぱいの自意識より遥かに心地よいだろう。
たまに罪悪感の欠如したサイコパス性を持った人間もいるけれど(アメリカだと100人に1人くらい、文化や遺伝の影響を受けるので日本だともっと少ないらしい)、共感性を欠いた彼らは目的の為なら躊躇なく物事を推し進めることができるので、人類全体の進化や進歩の過程の中で考えたら必要な存在である。サイコパス性を持った人間は、知性が一定の基準に達している場合、生存戦略としてきちんと良い人のフリができる。
ということは、人に悪人と認識される人間とは、生存戦略としてせめて良い人のフリをすることもできない、頭の弱い(宮台真司節)、つまりは生命力の弱い人間なのかもしれない。憎むべきどころか慈悲の対象である。本当の悪人は、誰にもバレないように悪事を働く。誰かひとりにでもバレてしまえば、逮捕されるなり、噂が立つなりして、悪事を働く場がどんどん減っていき、最終的には何もできなくなるからだ。
最近あらためて金原ひとみを読んでいる。私は芥川賞を受賞した彼女の処女作『蛇にピアス』を読んだときに思った、So what? 彼女が描いたのは私が、私たちが、あの頃生きていた世界の現実だった。金原ひとみの父親が当時から名の知れていた翻訳家の金原瑞人だと知った近所に住んでいた年上の男性は、もし自分の子供がこんな小説を書いたらどうしてよいかわからない、と言った。でもお兄さん、これが私たちの現実なんです、と思ったけれど言わなかった。
『蛇にピアス』には共感しかなかった、だから同族嫌悪に近いものがあったのかもしれない。私は救いが欲しかった。『蛇にピアス』には救いがなかった。だからSo what? と逃げるしかなかった。次作『アッシュベイビー』にも救いがなかった。そして私は金原ひとみを読まなくなった。その約20年後、書店で彼女の新作を見つけた、『パリの砂漠、東京の蜃気楼』。彼女がパリに住んでいた頃のことを含めたエッセイだった。
私は自分がストックホルムに断続的に住んでいた経験から、ヨーロッパに住んでいた/いる女性のエッセイに弱い。久しぶりに彼女の著作を手に取ってみる。凄い。エッセイと小説の文体が全く同じだ。この人は全部私小説、もしくは私小説風の作風で、本当に毎回血を流しながら書いていたんだ。表紙の彼女は20年前と同じように、いや、20年前よりも、神々しいとさえ言える美を纏っていた。この人は、自分でしかあれない自分として真摯に生きてきたのだ。それでこんなに美しく、正しく成長したのだ。
続けて読んだのは『軽薄』。禁断の愛と言ってしまえば陳腐になるけれど、極限状態での究極の愛が描かれている。凄い、凄い凄い、こんな境地に達していたのか。以前一部引用した川上未映子の言葉に通ずるものがあるかもしれない。
次に『オートフィクション』、自伝的私小説風小説の最終形態!谷崎賞受賞の『アンソーシャル ディスタンス』、「コロナ禍で、みんなも自分自身ももがき苦しんでいる。その声を書くしかないのではないかと思った」、なんて真摯な。そしてここ最近矢継ぎ早に出版されているのが、一見して今までの作風とはがらりと変わった、つまり私小説風でなくなった『腹を空かせた勇者ども』、『ハジケテマザレ』等。素晴らしい、素晴らしすぎる、臨界点越えからの転換。この天才作家には、あれもこれも書けるのだ。もちろん私小説だってまたいつでも書けるのだろう。
畏れ多くも同族嫌悪で避けていたのかもしれない私は、金原ひとみに回帰し、20年越しに救われている。ここにはほんとうのことが書かれている。『蛇にピアス』の少女は成長し、So what? の答えをくれたのだ!それは20年間彼女がとにかく真摯に生き、書き続けたからだ。20年はまたたきの一瞬、全てはおとぎ話。金原ひとみは、今いちばん日本で研ぎ澄まされた、書くことと向き合い続け、輝き続けている、唯一無二の文学者である。
十代の私は思っていた。ほんとうのことなんて書いてなんになるの。でも今ならわかる。ほんとうのことも書けない人間に、ほんとう以外の何かを紡ぎ出せるわけがない。彼女は強く、私は弱かった。その人がそうでしかあれないという生を生き切っている姿は恐ろしいほど美しく、その圧倒的な美に人は平伏すのだ。
※この写真は7月の手術直前に今年はもう今しか海に入るチャンスがない!と思い滑り込みで海に行ったときのもの。