2024年9月30日の日記

とあるロックスター、続・悪人論、金原ひとみについて

怒涛の9月が終わろうとしている。歌手としては名古屋に行って、代々木NARUに初出演して、関内では松本隆特集で日本語の曲と向き合い、神楽坂にも出演2回目だった。講師としては本格的に英語講師業を再開、同時に日本語講師業も開始した。おかげさまで、リスナーの方もスチューデントの方もじわじわと増えて来ている。新約聖書には「求めよ、さらば与えられん」と書いてあった。

手術後、私は別世界に降り立つのだと思っていたけれど、本当にそうなった。何もかも、認識が全てなのだ。別世界に降り立つのだと決める、そして本当に降り立つ。私は今何にも悩んでいない。悩むのをやめると決めたからだ。また悩みたくなったら悩むのだと思う。日々いろいろな出来事は起こる。でもそれを悩みであると認識しない。ただ「出来事が起こっている」もしくは「どうするべきか考える対象」だと思う。悩みではない。量子は観測者の認識によって存在の状態が変わるのだと量子論も説明している。量子は波と粒子の性質を併せ持つ。意識は波だ。アントニオ・カルロス・ジョビンは正しい。

どんな経緯で発見したのか覚えていないのだけれど、この方のnoteが面白くて更新される度に読んでいる。
https://note.com/keigosakatsume/

この方はたぶんロックスターで、もの凄い眼光と筆力で言葉を紡ぎ、私の憧れの海際に居を構え、要請があればどこにでも赴き、人々を(たぶん主に女性、でも性の区分けなど設けていないに違いない、ただ色気も凄いので磁場が歪むのだろう)癒し、鼓舞し、叱咤激励し、慰め、生きている。坂爪さんはおっしゃる、現実を見ている場合ではないと。あまりにもそのとおりすぎる、私たちが現実と認識している世界が幻想で、私たちが幻想と認識している世界が現実なのだから。坂爪さんはこうもおっしゃる。お姉様から受けた薫陶として、「バレない悪事は悪事じゃない」「挑発はするものであって乗るものではない」「感情が揺れた時は笑え」。あまりにもそのとおりすぎる。素敵なお姉様をお持ちである。

初めてお会いしたAさんはとても良い人だった、とBさんに伝えたところ、Bさんは、いや、でも出会ったばかりでその人の裏まではわからない、悪い人の可能性だってある、と言った。私は思う、もちろん可能性は何だって無限大だ。でもAさんがもし裏で巨悪の限りを尽くしているめちゃくちゃ悪い人だったとしても、一生私に自分は良い人だと思わせることができたのなら、やはりAさんは「良い人」なのだ。他人から悪い人、と思われるよりは、良い人、と認識しておいて貰った方が、どう考えても生存戦略としてよいだろう。良い人の方が周囲からの支援を受けやすいし、自分でも自分は良い人で他人に対して善行を行うような人間である、と思っている方が、自分は悪人で罪人なのだ、という罪悪感でいっぱいの自意識より遥かに心地よいだろう。

たまに罪悪感の欠如したサイコパス性を持った人間もいるけれど(アメリカだと100人に1人くらい、文化や遺伝の影響を受けるので日本だともっと少ないらしい)、共感性を欠いた彼らは目的の為なら躊躇なく物事を推し進めることができるので、人類全体の進化や進歩の過程の中で考えたら必要な存在である。サイコパス性を持った人間は、知性が一定の基準に達している場合、生存戦略としてきちんと良い人のフリができる。

ということは、人に悪人と認識される人間とは、生存戦略としてせめて良い人のフリをすることもできない、頭の弱い(宮台真司節)、つまりは生命力の弱い人間なのかもしれない。憎むべきどころか慈悲の対象である。本当の悪人は、誰にもバレないように悪事を働く。誰かひとりにでもバレてしまえば、逮捕されるなり、噂が立つなりして、悪事を働く場がどんどん減っていき、最終的には何もできなくなるからだ。

最近あらためて金原ひとみを読んでいる。私は芥川賞を受賞した彼女の処女作『蛇にピアス』を読んだときに思った、So what? 彼女が描いたのは私が、私たちが、あの頃生きていた世界の現実だった。金原ひとみの父親が当時から名の知れていた翻訳家の金原瑞人だと知った近所に住んでいた年上の男性は、もし自分の子供がこんな小説を書いたらどうしてよいかわからない、と言った。でもお兄さん、これが私たちの現実なんです、と思ったけれど言わなかった。

『蛇にピアス』には共感しかなかった、だから同族嫌悪に近いものがあったのかもしれない。私は救いが欲しかった。『蛇にピアス』には救いがなかった。だからSo what? と逃げるしかなかった。次作『アッシュベイビー』にも救いがなかった。そして私は金原ひとみを読まなくなった。その約20年後、書店で彼女の新作を見つけた、『パリの砂漠、東京の蜃気楼』。彼女がパリに住んでいた頃のことを含めたエッセイだった。

私は自分がストックホルムに断続的に住んでいた経験から、ヨーロッパに住んでいた/いる女性のエッセイに弱い。久しぶりに彼女の著作を手に取ってみる。凄い。エッセイと小説の文体が全く同じだ。この人は全部私小説、もしくは私小説風の作風で、本当に毎回血を流しながら書いていたんだ。表紙の彼女は20年前と同じように、いや、20年前よりも、神々しいとさえ言える美を纏っていた。この人は、自分でしかあれない自分として真摯に生きてきたのだ。それでこんなに美しく、正しく成長したのだ。

続けて読んだのは『軽薄』。禁断の愛と言ってしまえば陳腐になるけれど、極限状態での究極の愛が描かれている。凄い、凄い凄い、こんな境地に達していたのか。以前一部引用した川上未映子の言葉に通ずるものがあるかもしれない。

次に『オートフィクション』、自伝的私小説風小説の最終形態!谷崎賞受賞の『アンソーシャル ディスタンス』、「コロナ禍で、みんなも自分自身ももがき苦しんでいる。その声を書くしかないのではないかと思った」、なんて真摯な。そしてここ最近矢継ぎ早に出版されているのが、一見して今までの作風とはがらりと変わった、つまり私小説風でなくなった『腹を空かせた勇者ども』、『ハジケテマザレ』等。素晴らしい、素晴らしすぎる、臨界点越えからの転換。この天才作家には、あれもこれも書けるのだ。もちろん私小説だってまたいつでも書けるのだろう。

畏れ多くも同族嫌悪で避けていたのかもしれない私は、金原ひとみに回帰し、20年越しに救われている。ここにはほんとうのことが書かれている。『蛇にピアス』の少女は成長し、So what? の答えをくれたのだ!それは20年間彼女がとにかく真摯に生き、書き続けたからだ。20年はまたたきの一瞬、全てはおとぎ話。金原ひとみは、今いちばん日本で研ぎ澄まされた、書くことと向き合い続け、輝き続けている、唯一無二の文学者である。

十代の私は思っていた。ほんとうのことなんて書いてなんになるの。でも今ならわかる。ほんとうのことも書けない人間に、ほんとう以外の何かを紡ぎ出せるわけがない。彼女は強く、私は弱かった。その人がそうでしかあれないという生を生き切っている姿は恐ろしいほど美しく、その圧倒的な美に人は平伏すのだ。

※この写真は7月の手術直前に今年はもう今しか海に入るチャンスがない!と思い滑り込みで海に行ったときのもの。

2024年9月12日の日記

ずっとほったらかしていた公的な手続きを一気にやる。区役所とか銀行とか奨学金のこととか。締切とは神が与えたもうたシステムだ。期限がないとやる気が起きないことがたくさんある。いろいろ整理しているうちに発覚したこと、大学の奨学金という名の借金(日本学生支援機機構)の返済があと2ヶ月、つまりあと2回で完済すること!

大学を卒業してから、毎月約10,155円、いや払えない月もあったけど、でも少しずつ少しずつ返してきた。大学の入学金は、大学そのものが保証人になってくれて、銀行から借りたお金で払った。こちらはかなり前に完済済み。借りた額が大きかった日本学生支援機構の方は、ずう〜っと返し続けて、今に至る。

とても有り難いことに大学からは貸与でなくて給付の奨学金をいただけたこともあったけど、それだけでは夜学とはいえ、私大の学費と生活費は到底足りず。私はスーパーリベラルかつアナーキーなスウェーデンかぶれの人間なので、保育園/幼稚園(この区別すらどうかと思う)から大学院まで無償でないなんてあり得ないと思っているけれど、日本にいる以上、日本学生支援機構の奨学金制度がなかったら大学に行くこともできなかったのだから大変有り難い。

苦しいときも、嬉しいときも、悲しいときも、ひとりのときも、ふたりのときも、またひとりになったときも、祈っていたときも、その後も、ずっとそばにいてくれたのね奨学金(の返済)。というBlue Moonの歌詞みたいな気持ち。

私はたぶんどちらかというと、よく言えば論理的思考ができる、悪く言えばかなり理屈っぽいと思われている。でもそれは私が感性と身体能力がものを言うジャズボーカル界に身を置いているからであって、例えば文学部生時代には、私は論理性が足りない方であった。A +なんてどうやって取るのかわからなかった。クラスメイトたちはもの凄く頭が良くて、もの凄くたくさんの本を読んでいて、めちゃくちゃ複雑な論理的思考ができて、何を言っているのかわからなかった。私は自分は馬鹿だと思って嬉しかった。学ぶべきことが多くあるのはうきうきする!

だいたい、わざわざ夜学の文学部に行くような人間は本当の数奇者、活字狂い、思想狂いばかりだ。試験科目は、国語、英語、小論文のみ。言葉の論理とともに起床し、論理で歯を磨き、論理のシャワーを浴びて、論理とともに登校。授業を受けて、学友や教授と議論を交わし、食事を摂り、また論理ともに床に就く。ベッドの上は本だらけ。もちろん枕は本である。ちょっと硬いけどね。

人の思考の合理性、論理性というのは、育ってきた文化や使用する言語によってかなり違う、というのは、日本語と英語という二つの言語、あといくぶんかのスウェーデン語を扱うことによって、実感している。

例えば、文学部の外に出た私は日本では理屈っぽい人間として人を辟易させるときもあるけれど、英語で喋っているときに私の思考が理屈っぽすぎて辟易する人には出会ったことがない。特にスウェーデンで生まれ育った人間は日本文化からしたらもの凄く合理的、悪く言えば理屈っぽい。私がスウェーデン人とコミュニケーションを取るときには、もっと思考を明確に言葉にしてくれないとあなたの考えがわからない、と言われるけれど、日本の方とコミュニケーションを取るときには、物事をなんでもはっきり言語化しすぎだと言われる。日本は全てを言語化せずに曖昧な部分を残しておく美学。

そうだ、日本語文脈ではKYと言われる私ですが、逆に英語文脈では、勝手に意味を読まないで、と言われます。なぜかというと、相手が思考して言語化して伝えていることがまさに伝えたいことなので、言語外の意味を勝手に推測するのは対話においては失礼にあたるから。言語学において日本語は超高コンテクスト(文脈)言語で、英語は低コンテクスト言語だから、この違いはしょうがない。日本語のコミュニケーションでは言語化されない部分の文脈把握が大切だけれど、英語では日本語ほど文脈把握は必要でない。むしろ何でも言語化して伝えるように、そして相手の言語を理解して対話するように、幼少期から教え込まれるのです。言語変われば、所変われば、人の評価も印象も全ては移ろいゆく相対的なもの。

FB上で、全然知らないオーストラリア人らしき人からアジア人を侮蔑する言葉を投げかけられた。えっ、凄い!新鮮!今どき人種差別をする人ってまだ存在していたのか…。概念が幼いのね。頭が弱いのね。

ダライ・ラマは、いわゆる悪人やダメな感じの人と出会ったときは感謝するのだという。その理由は、どの書籍に書いてあったのかうろ覚えかつ私の解釈も多分に含んでいるのだけど、その人が悪ければ悪いほど、ダメであればあるほど、何がよい行動とされるのか、善とは何であるか、輪郭がはっきりしていく。悪い人はその悪い行動によって、世界の悪さを引き受けてくれているのだから、感謝するべきなのだ。

ここからは完全に私の言葉だけど、あちらの世界に持っていけるのは、魂の色彩だけなのだから、ふつうは誰だって美しくて清くて綺麗な色が好きなはずだから、わざわざ汚れた魂の色彩を引き受けている悪人は尊いのかもしれない。嘘をついたり、脅したり、真実から目を逸らし続ける者たち。被害者のふりをする加害者。そして被害を受けた、というところに大きな落とし穴があると思っている。

理不尽なことが起きる。悲劇はランダムに起こる。通り魔がいる。それを誰かが引き受けて、いわゆる被害者になる。問題なのは、被害者が自らのトラウマ的な体験によって、加害者になっていくことだと思う。被害を受けた怒り、悲しみ、憎しみがごちゃ混ぜになって、自分の痛みを何かを代償にして埋め合わせようとする。強烈な痛みをこの瞬間に抱えている者は、他人の痛みなど気にしている暇はない。今首を絞められて殺されようとしているものは、もがいて動かした爪で人の皮膚を切り裂いていることになんて気づけないだろう。なんとかしてまずは呼吸をしなければならない。脳に酸素がいっていないのだから、思考がものすごく浅い状態。そしてその尖った爪をもって次の通り魔が誕生する。

加害者と被害者の連鎖、被害者が加害者になっていく過程ってこれに尽きるのではないかしら?だとしたら、こんなに単純でつまらないゲームからは卒業するべきだ。だから楽しくない同じことを何度も繰り返すのは馬鹿のすることなんだってば。

いやいや、だって子供のときから何十年も虐待を受け続けたんだよ?戦争で人を殺したり、殺されたんだよ?騙されて、全財産を失って、強姦されて、DVを受けて、苦しくて苦しくて、クスリやセックスや自傷や他傷が必要だ。わかる、わかるよ。辛かったよね、私もそうだったよ。自分の痛みが辛すぎて、無意識に、あるいは意図的に、人も自分も傷つけてきたんだ。ごめんなさい。もし輪廻が存在するならば、誰にでも過去世には酷い経験があったのかもしれない。そうでなくとも物語の中では何でも何度でも擬似体験ができるでしょう。

極限状態で保たれる人間性のことを考える。ホロコースト下でのユダヤ人強制収容所が舞台のコメディ(!)、ロベルト・ベニーニ監督『ライフ・イズ・ビューティフル』、この映画がある限り、どんな酷い状態でも人としての品格は保たれ得るのだと、どんな酷い環境にいてもその究極の責任は本人の中にしかないのだと思う。何が起きても、それをどう解釈するのか、昇華するのか、心の中のどの位置にそれを置くのか、本人次第であるという究極の祝福。

通り魔に会って、自分が被害者である、という意識でいるとき、周りも自分のことを被害者として扱うとき、確かに、怒りや、悲しみや、憎しみを感じないでいることは結構難しい。その不快な感覚を自分の中に生じさせた通り魔を恨むかもしれない。でも人間は認識が、意識が全てなのだから、この不快な感覚を制御できないことが何よりも辛い体験なのだ。

特に怒りのような原始的な感情は、脳の中でも大脳辺縁系と呼ばれる部位が関わっていて、凄く単純化して言うと、人の脳は、他人への怒りや攻撃性を自らと切り離して考えることができないという。人に対して怒っていても、脳は自分に対して怒っているかのように、ストレスとダメージを受ける。人を呪わば穴二つ、という言い回しはこのことを指しているのかもしれない。怒りは被害者を蝕んでゆく。

わかった、じゃあどんな「被害」に会ったとしても、怒りや憎しみを感じなければ幸せでいられるというわけね?でもそんなこと、人間に可能なのかしら?それってむしろ感情を感じるという人間性の放棄なのでは…あんなに酷いことをされたのに!PTSDの症状が酷くて今にも死にそうなのに!

ここで冒頭に戻る、ダライ・ラマの言葉だ。世界の悪を引き受けてくれている悪人に感謝を、憐れみを。最新の科学によると、意識すら量子の働きかもしれないので、そして量子は観測者が観測して初めて存在するらしいので、怒りや憎しみに意識を向けない。意識されないものは存在できない。

すでに存在しているPTSDの症状や、怒りや憎しみに対しては、必要な場合は投薬治療を受けてもいい、カウンセリングを受けてもいい、精神分析でも、滝に打たれても、自己啓発本を読んでもいい、瞑想しても、スピリチュアルでも、ホ・オポノポノとかいろいろなクリーニング法や手放し方があるじゃない、作品に昇華してもいい、とにかく手を替え品を替え浄化していく、のは全て己の幸せの為。あなたの脳がきちんと機能して心が穏やかになる日がいつかやってますように。

たまに、例外として、過去の被害も何も関係なく純粋な悪の塊もいるけれど、それはもう悪神様って感じで、拝んで通りすぎる。彼/彼女は世界のコントラストを表現する為に存在しているだけなので、近寄らないのがいちばん。

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園子温監督『愛のむきだし』より孫引き

【新約聖書コリント使徒への手紙第十三章】

完全なものが到来するときには、部分的なものは廃れさる。私は幼い子供であった時、幼い子供のように語り、幼い子供のように考え、幼い子供のように思いを巡らした。ただ、一人前の者になった時、幼い子供のことは止めにした。

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自分も周りも、被害者が加害者になっていく連鎖が、どう考えても、幼少期から、止まらない。そして現時点において、もうこれって何か変だな、いい加減悲劇に飽きてきたな、何か抜け出す方法があるはずだぞ、と、やっと客観性を持って状況を見て、考えられるくらいに、私の思考が成長した。でも論理で考えられる部分があっても、自らの感情の扱いが、まだまだパーフェクトなわけではないから、日々是精進。ちょっとしたことで、感情が揺れ動き、それらひとつひとつを丁寧に処理していく。手放したり、昇華したり、思考によって分解したり。この不毛な連鎖から必ず抜け出すぞ、という強靭な意志を持って私は日々生きているのです。

で、ここからは一気に論理が破綻するのだけど(笑)私の音楽理論の師匠は凄く魅力的な人で、魅力的な人にありがちなこととして、愛されすぎる。愛されすぎると、憎まれたりするもので、何らかの発言をすると(あとたぶんたいして発言してないときもある程度コンスタントに)嫌がらせメールとか、殺害予告とか、よく来るんだって。それで、彼がそのことにXで言及して言っていたのが、

「殺意や呪いに近い怒りを抱くのは、とても精神に良い。僕でよかったら好きなだけやってほしい。感情押し殺すから具合悪くする。」

凄い。かっこよすぎる(笑)なんかこういうやり方もあるんだな〜って、それもいいかも、と思いました(笑)。私はいい子だから真面目すぎるんだよね。この世界をもっともっと遊んでいこう。

※写真は去年の今頃、ヴェニスでディナー

名古屋Swingありがとうございました!

来れば来るほど温かい名古屋。大好きです。

初めて来たときは、コーラスのお仕事で、次はソロ、その次は1stアルバムのレコ発、今回は老舗Swingにて、ダブルボーカルでコーラスアレンジを。毎回毎回とても素敵な経験を積ませていただいてますが、今回も最高だったな、と感じています。皆ほんとうに温かい…🫶🏻

浅川太平さん作のキュートでアンニュイなスタンダードのコーラスアレンジ、練習するのも楽しかったです☺️

相方、鈴木靖子ちゃんとは東京で出会って、なんだかヴァイブスが凄く合って、すぐに仲良くなって。こんなにすぐに名古屋ライブが一緒にできて、とても嬉しかったです!
意図せずして今日も同じ色の服でした❤️
また靖子ちゃんとコーラスライブしたいです。
名古屋でも、東京でも。

昨日のライブ後は2時くらいまで沖縄料理をご馳走になって、お昼はベトナム料理で、その後可愛いカフェでケーキを食べて、名店蓬莱軒のひつまぶしをいただきました。私と彼女は、やっとお腹いっぱいになったね、というか、ちょうどいいね、と言い合いました〜。

夜はDoxyにQuietronicaを聴きに。キレキレの皆さまのパフォーマンスによいインスピレーションをいただきました🙏✨透明感…。

もうすぐおうちです。でもなんか今さらだけど…私は横浜がホームとも思っていないのかもしれないな。ホームは心の中にしかないのかも。それは大好きな人の、大好きな人たちの、いる場所です。

続・手術後記

たくさんのお見舞いと励ましのお言葉をありがとうございます!

退院して1週間が経ち、昨日は通院日でした。手術箇所に血だまりもなく、傷口は順調に塞がってきているとのこと。少しずつ可動域も広がってきていますし、鎮痛剤を飲まないで済む時間も増えてきています。くるっと寝返りを打つまではいかないけど、寝る向きを変えたり、靴下を履いたりは、できるようになりました。簡単な家事もできます。やはり来週までには歌手としてステージに立てるくらいには回復できそうです!

血液検査もしたのですが、1週間ちょっとでヘモグロビンの数値が5も回復し、急性の貧血状態から、女性の平均値よりも値が高いくらいになりました!ヘモグロビンの超回復、こんなことあるんですか!?とドクターに聞いたら、いやーあるんですねー、と不思議そうに笑っていました。ヘモグロビンの数値って、毎日鉄剤を飲んだとしても、1上げるのに1ヶ月くらいかかるって聞いていたのですが…どういうこと!?入院中に輸血しても一回の輸血で0.5ずつくらいしか上がらなかったのに…。日々アサイードリンクやら牛肉やらを運んでくれた家族と、私の体の中をいつも整えて下さっているオルタナティヴメディスン、ボディワークの先生のおかげだと思います。何事にも天才はいるのです。確かに、3日くらい前から貧血頭痛がしなくなってきてはいました。

いろいろと発見したこと。野菜を切るのにも結構な腹筋を使っていたこと。ベッドから起き上がるのにもかなりお腹の力が必要だということ。近所にお買い物や食事に行って帰ってきてもそんなに消耗しないのですが、冬瓜を切ったりピーラーで剥くだけでめちゃくちゃ疲れたこと(ウリ科の硬さおそるべし!)。冬瓜で懲りたので、まだカボチャには手を出せず(笑)交感神経が優位になりがちで眠るのが苦手だった私が毎日すぐ眠くなってしまうこと。

さらに人生初の手術日のことを振り返ってみます。

術後、手術室から病室に運ばれてきた私は全身麻酔から少しずつ意識が戻ってきたところ。これは初めて知ったことですが、全身麻酔後、もう意識が戻ってきていても、まだ目を開けることも体を動かすこともできない状態というのがあるのです。意識だけが復活した状態で私が聞いた言葉。「先生、出血が止まらないんです」

まだ目も開けられず、喋ることもできない、耳から聞こえる情報は認識できる。ああ、私は今出血が止まらない状態なのかと、ぼんやり思う。バタバタと道具を持ってきたナースに針の形やサイズが違う、と怒るドクター。その直後、おへそに激痛が走る。出血箇所を縫い出した模様。私はここでか細いながらもなんとか声を出すことができるようになる。「痛い、痛いです…」部分麻酔を追加。続く激痛。なんとか縫い終え、出血も止まったらしい。人生の中で頂点の痛み体験でした。

後からもっと意識がしっかりした後に聞いたドクターとナースの話を総合するに、手術が無事に終わり、止血できたことも確認し、私が病室へ運ばれた後に、おへその部分からの出血が急に始まり止まらなくなったとのこと。腹腔鏡手術では、おへそから炭酸ガスを入れてお腹を膨らませて手術をし易くしたり、内視鏡を入れて腹腔の状態をモニターに映したりします。なのでもちろん切開の傷口はあるのですが、そこからの出血が急に再開し、なかなか止まらなかったとのこと。移動やいろんな管を抜き差しする中で、術後に急に血圧が上がったりして再度出血することはたまにあるそうです。

確かに既にかなり出血してきている中で、私自身は激痛を味わうことになったとしても、失う血の量をできるだけ少なくする為には、できるだけ速く処置しないといけない。何らかの連絡ミスで医師の意図とは違う針が届いてしまったけど、また取りに行く数分を待つよりは、今ある道具でそのまま縫う方がよかったのだろうと思います。別の針でも痛みの具合はさほど変わらなかったのかもしれないし、とにかく血を止めることが先決で、部分麻酔が完全に効くまで待つほどの時間も出血量を考えるとなかったのかもしれない。

それから、手術直後のあの感覚。術後の腹部の痛み、慣れないカテーテルの心地悪さ、体が揺れて地震かと思うほどの貧血による動悸(でも実際に震度2くらいの地震もあったみたいで余計に混乱)、酸素マスクの苦しさ(測ると酸素飽和度は高いのになぜか私は苦しい苦しいと訴え続けていた)膝下に装着された血栓症を防ぐ為のマッサージ器が蠢き続ける不快な感覚と音。中枢性鎮痛剤のペンタゾシンを点滴に注入してもらうまでは本当に辛かった。ペンタゾシンによって、うとうとして半分夢の世界に意識を飛ばすことができると急に楽になる。ずっとペンタゾシンの影響下にいたかったけれど、21時くらいに効果が切れてくる。ナースいわく「このお薬は使いすぎると呼吸が弱くなってしまったりして副作用がこわいので、次に注入できるのは0時です」。がーん、あと3時間は私の意識はひとりでここにいるのか…。

このとき体がほとんど動かせない私が考えていたことは、私の意識はいつもと同じでいろいろなことを考えることができる。でも体が動かせなければ、喋ることさえままならなければ、指さえ動かせることができなければ、私の意識を外部に伝えることもできない。いや、いつもと同じ意識と思っていても、かなりの部分が痛みに捉われてしまって、深い思考はできなくなっているのかもしれない。私の意識は私の弱った肉体に閉じ込められている。いつまで私はこの状態に閉じ込められたままなのであろうか。ナースは、順調にいけば、段階的に管や器具を外して、明日にはカテーテルを外して、自分で歩くこともできるようになると言う。ではこの身体感覚に耐えないといけないのはあと十数時間で、そんなに長くは続かないはず…。はたしてこの十数時間は、体感的に、今までの人生の中で、いちばん長い十数時間でした。

肉体でなくて意識が私の本体なのであれば、意識にとってこれは長く耐えられることではないと思いました。そして、これは全くネガティヴな意味でなくて、ポジティヴな意味で、と前置きしますが、尊厳死、安楽死、もしくは自死やそれに値するもの。全てを一緒くたにしてはなりませんが、これらに共通する、自分で自分の肉体を消失させるという行為に至らざるを得ないほど辛い身体の状態が人に訪れることもあるのだ、ということを垣間見ました。

私は現時点では特定の宗教を信仰していませんが、なんとなく魂のようなものは存在して、生まれ変わりもあるのではないかしら、という世界観で生きています。自らの肉体が消えることがその人にとっては魂の解放になることもあるのかもしれない。そういう選択を取らざるを得なかった身近な人の行為を前よりは少しだけ理解できたような気がします。でもエゴイスティックな私には、今自分の周りにいる大切な人たちが、今後そういう選択肢を取らざるを得ない状況に追い込まれることがありませんように、と願ってしまう気持ちも多分にあるのですが。

初めての入院&手術に加えてこれほどの身体的な痛みと苦しみも初めてのことで、何もかもが初体験尽くしでした。ベッドから起き上がれた喜び、カテーテルが外れた後(無事翌日には外れました)歩けるようになった喜び、3日ぶりにシャワーを浴びたときの快感。自発呼吸ができて、歩行できて、食事が摂れる、もうこれでじゅうぶんだ、というプリミティヴな、生きていることそのものへの感謝。

私なりに生と死の狭間の体験をしたと思い、浮世に戻って来てみると、相変わらず大なり小なり人間同士の諍いが絶えなかったりする。特定の宗教を持たない私ですが、宗教のことを調べたり本で読んだりするのは好きです。仏教においては、苦しみの原因のひとつに無知無明があると言います。でも正しい智慧を育むことによって、苦しみを滅することができる。無知無明とは、ものごとが無常であることや正しい教えを知らない状態を指すそうです。無知無明は癡とも称され、仏教における三毒の中でも最も根本的な煩悩であります。

どんな立場の人であっても、思考を停止し、ものごとを自分の都合のよいように解釈し、真実を見ないようにすることは、やはり罪深いと思う。それで不当な扱いを受ける人がいる。何よりも自分の魂が穢れてしまう。

私自身、自分の中の、ものごとの歪んだ解釈や、自分への虚偽の申告に気づかなければいけない。そしてなぜ私はそういう認識に至らざるを得なかったのか?そこを考える。今まで傷ついてきた経験ゆえなのか、自分のよくないところを認められない弱さからなのか、楽な方向に流れてしまっていないか、利益欲しさに合理化していないか、面倒だからと適当に扱っていないか、未熟で頭の動きが鈍いせいなのか、愚かな自分を自覚することがおそろしいのか。

自分のよくないところを自覚したときに、過ぎた自己嫌悪や自傷に向かうのもナルシシズム。自分との距離が近すぎる。それではものごとの本質が見えなくなる。全ては無常であり、自分は全体の一部であり、ひいては全体そのものであるのだという智慧があったならば、美しい花や小鳥を愛でるように自分自身や他者を愛でることができる。愛でることはただ甘やかすことではない。自他どちらでもよくないところがあったら認識することによって改善法を探ることができる。自分にとって必要のない感情や感覚であったならば手放してゆくことができる。何事においてもまずは逃げずに真実を見つめることが全ての始まりになる。

占星術好きの方はご存じ、これからは風の時代じゃないですか。嘘や幻想が強かった時代は終わり、真実がいちばん強いという時代への過渡期が今だそうです。ほんとうがいちばん強い。だからこれをここまで読んで下さった奇特な貴方が、ご自身の真実に誠実であれますように。そしたらきっと良いことあるよ。もし嘘をつく場合は絶対にばれない嘘を、墓場まで持っていく覚悟で。そしたらそれはほんとうの嘘になって、真実になるのです。

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【💫主な出演予定💫】

◆8/6(火)関内Ben Tenuto
Blossom Dearie特集
ユニットThe Lost Sweetsとして出演
ジャズライブとDJ, 解説、プログラム付き
浅川太平(Pf)

◆8/9(金)関内Venus
Venus Sistersコーラスライブ!

◆8/16(金)サロンdeおむすび横浜
初出演💖関内駅北口が最寄り、トライベッカがあったところです
松本曹史(Gt & Vo), 小島幸華(Tp), 朝倉由里(Pf), 神吉尚(Ds)

◆8/22(木)関内Venus
去年に続いて気怠い夏特集✨
ボサノヴァや夏の曲をたっぷりと🏝
浅川太平(Pf)

◆9/6(金)名古屋Swing
久しぶりに大好きな名古屋へ遠征です
鈴木靖子(Vo) 浅川太平(Pf)

◆9/14(土)代々木NARU
老舗ジャズクラブへ初出演💖
文舒(Vo), 片貝晴美(Vo), 廣田ゆり(Pf), 佐藤きりん(Ba)

◆9/26(木)おむすびJAZZ神楽坂
出演2回目です!
大橋祐子(Pf)他
わーい、祐子さんと一緒だよー♪

嘘みたいな本当の話 

数年前ツアーに出ていた私は絶望していた。世界はかなしみに満ち満ちているのだから、誰でもいつでも簡単に絶望することができる。

ニュースを見て絶望。仕事で絶望。景気で絶望、失恋で絶望。家庭の絶望。無能の絶望。凡才の絶望。天才の絶望。貧困の、飢餓の、戦争の、犯罪の、思想の、無知の、抑圧の、嫉妬の、無価値感の、科学の、AIの、自然破壊の、監視社会の、経済の、政治の、陰謀の、宗教の、睡眠不足の、成績不審の、精神の、身体の、病の、ウィルスの、喪失の、老いの、孤独の、馬鹿の、秘密の、嘘の、芸術の、うたかたの、性の、愛の過剰の、愛の不在の絶望、絶望の絶望による絶望の為の絶望、箸が転がっても絶望、どこを切っても絶望の金太郎飴、絶望先生。絶望しない理由が見つからない。

でも人は簡単なゲームや単純なストーリーにはすぐに飽きてしまうので、これは(勝ち負けがあるとすればだけど)幸福感や安心感を持続させた者が勝つように作られたゲームなのかもしれない。出自や環境や身体/精神的な特徴や起きた出来事が過酷な者は、ゲームの難易度を高く設定して生まれてきた勇敢な戦士なのだとしたら。(私は魔法使いか踊り子になりたい)

ツアーの話に戻る。ツアーで奏でた音楽も、オーディエンスも最高だった。「どんな音楽も、音楽は、鳴らされた瞬間から必ず素晴らしい」。私が絶望していたのは上記全ての影響とも言えるし、特に自らの身体的特徴に対してで、あのとき私はとても忙しくしていて(そうしないと何でもゆっくりしている私は自分の人生に自分が間に合わなかった)充実した日々を送っていたとも言えるけれど、忙しくすればするほど、眠れなくなっていった。

私はすぐ交感神経が優位に立ってしまうタイプなので、集中すればするほど、仕事をすればするほど眠れなくなる。同じタイプの脳の方にはこの感覚をわかってもらえると思うけれど、これは穏やか(?)でゆったりしている私のパーソナリティとは切り離して考えるべき、ただの身体的な特徴なのだ。自覚してはいたのだけれども、あのときはどうしても睡眠導入剤を処方してもらいに病院に行く時間さえなかった。ツアー前後は事務処理で忙しくしていても、いったんツアーに出てしまえば、あとは移動とパフォーマンスと宿泊と移動だけ。その夜、ホテルの一室で、体は凄く疲れているのに結局一睡もできなかったことに私は絶望していた。人は睡眠中にストレス処理をしているので眠れないと脳のゴミが溜まっていくし、成長ホルモンがじゅうぶんに分泌されず、疲労も回復しない。

そのとき、母からLINEが来た。これ読んでみて、というメッセージとともに、占星術サイトのリンクが貼られていた。誕生日を入力すると、その誕生日の人は、どの誕生日の日と相性が良いかがわかるという、よくある仕様。母は自分の誕生日を占った後に、娘たちの誕生日も占ってみたのだという。私の誕生日を入力して出た結果は…

一番目の運命の人: 母
二番目の運命の人: 父
カルマメイト: 元夫
上司にするとよい人: 当時の音楽理論の師匠で現在所属している音楽制作団体の長
恋人にするとよい人: 当時好きだった人

これだけの項目が全て合致していた。こんな偶然。勧誘とか、個人情報漏れとか、壺を買わされるとか、疑ってもよいかもしれないような結果である。でもこれは誰のどのブラウザを使っても同じ結果で、もちろんこの後何の勧誘もない。入力したのは自分の誕生日の日付だけ。そういえば当時好きだった人のことは私の中の秘め事で誰にも話していなかったし、新音楽制作工房もまだ始まっていなかった。母はただ一番目と二番目の運命の人の結果を面白いと思って連絡してきたので、それ以外の登場人物の誕生日は彼女の預かり知らぬところ。

元から占星術に関しては統計学で何千年もかけて精査されてきた先人の優れた知恵だと思っていたけれど(少しの気圧の変化で体調が変わる小さな私たちがあんなに大きな天体の影響を受けないと考える方が非合理じゃないだろうか)、こんなにあからさまな結果が出るとは、とても愉快な気持ちになった。なんてわかりやすい、おもちゃみたいな人生!自分が『トゥルーマン・ショー』のトゥルーマンになったような、マトリックスにいるみたいな気持ち。ねえやっぱりこれってRPGゲームか映画かなんかなんじゃないの?

そこで私は、もしある程度のシナリオが存在し得るなら、自分で自分をコントロールしようなんて、しなくてもよいのだなと思った。ここの言い回しが難しいのだけれど、人は強靭な意志を持って人生をコントロールすることはある程度はできると思う。それができるのは本当に凄いことだ。映画『ガタカ』みたいな感じね。でもわざわざ全員がそれをする必要もない。人生に対してできることは、やるべきだと感じることを常に選び取っていくことで、あとはそれを遂行する為に必要な微調整を試みるくらいでもよいのではないか。たぶんそれぞれに割り当てられた役割がある。酷く複雑な相互作用を持つ小さな個体たちの集合体は全体でひとつ。

たくさん集中した後、眠れなくても仕方ない、だって私はそういう風に生まれついたのだもの (by Lady GAGA)。でも倒れないように、できるだけ日の光を浴びて、メラトニンの生成を促して、適度な運動をしたりして、就寝時間前のブルーライトはなるべく避けて、必要なときはお薬の力も借りて、可能な範囲で眠っていけばよいのだわ。

簡単なゲームや単純なストーリーは面白くない。好奇心が刺激されるようなある程度複雑なストーリーが好き。この絶望ゲームをクリアする為には、一定ラインの幸福感の持続が必要で、私は日々手を替え品を替えそれに挑んで花を飾ったり、海に行ったり、愛を伝えたりし、薄氷の上を歩き、どうしたらクリアできるのか人体実験、なんとかハッピーエンドまで辿り着くことを試みている。

【💫出演予定💫】
6/4(火)関内Venus
6/7(金)おむすびJAZZ神楽坂💖初出演
7/2(火)関内Venus
7/25(木)関内Venus
8/6(火)関内Ben Tenuto
9/14(土)代々木NARU 💖初出演

※3年ぶりに英語個人レッスンの受付を再開しました!日常会話、ビジネス英語、受験、全て対応可。まずは体験レッスン¥3,000/1hからお気軽にどうぞ👩‍🏫📕

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音楽と言葉の体感

とあるお仕事の為、一気に文学作品を読んでいる(日々上げているのは趣味の本とか)。活字に触れられるしあわせ。私はたぶん、いわゆる活字中毒というやつなので、音楽活動の妨げになってはいけないと、歌の仕事をさせていただくようになってからは意図的に読書を避けていた。謎の禁欲精神と看做されるかもしれないけれど、そうしないといけないと思うほどに私は不器用だった。誤解を恐れずに言えば、自らの適性を顧みて、音よりも弁が立ってしまう状況を避けたかった。

でも2021年に加藤咲希名義のジャズボーカルアルバムと、2023年にLilla Flicka名義のSSWとしてのポップアルバムをリリースして、音楽家として自分が良いと思える双生児作品を世に出せたこと、さらにその直後に父の他界とそれにまつわる精神的な疲弊と膨大な事務手続きを経験した後、もう好きなだけ、本を読んだり、文章を書いたりすることを自分に許すことにした。

あらためて言葉の世界に戻ってきてみると、全ての人が同じとは限らないので私にとってはと限定した上で、音楽の方が物理的にも精神的にも圧倒的に健康な世界である。

例えば安定した歌を歌い続ける為には日々のストレッチ、筋トレ、ボイトレが必要がなので、必然的にエクササイズをしなければならないし、耳であるいは全身で音を聴いて、声を使って音を発する、この振動がマッサージさながら、周波数を使って自分で自分を治療するような行為となる。

一方本を読むときは同じ姿勢が長時間続く。執筆時も同様で、振動してはむしろ本が読めないし書けない。こちらの揺らすのではなく、留めるという作業は人体にとってかなり過酷であり、別の意味でものすごい体力を必要とする。だからあの有名な某作家先生は毎日走っているに違いない。

さらにライブ活動というのはそれだけで必然的に人との交流が生まれるけれど、読んだり書いたりする作業は、それを何らかの形で発表するまではたったひとりの脳内で描かれる孤独な作業である。もちろん文字を通した先人著者たちとの交流はあるけれど、それはライブと比べるとかなり密やかな交歓だ。こちらもほとんど体が動かない。簡単に自家中毒になれる。言葉の世界はその成り立ちからしても、端的に言って、狂気の世界なのである。

今考えると、私は音楽というアンカーが存在してくれるようになったからこそ、やっと言葉の深海に躊躇なく潜っていくことができるようになったのかもしれない。もちろん拙いながらも夢中で歌手としての活動を拡張しているときにはそんなことは全く考えていなかったので、これは意図せずして得た結果である。全ての活動中の作家は何らかの形でアンカーを持っているのだと思うし、音楽家、特に脳内で書いて描いていくタイプの音楽家にとっても(つまりそれはこの文脈において作家と同義である)、何らかのアンカーを持つことは活動を続けていく為に、何よりも優先すべき最重要事項であるように思う。

【💫出演予定💫】

6/4(火)関内Venus 

6/7(金)おむすびJAZZ神楽坂💖初出演

7/2(火)関内Venus 

7/25(木)関内Venus

8/6(火)関内Ben Tenuto

9/14(土)代々木NARU 💖初出演

※3年ぶりに英語個人レッスンの受付を再開しました!日常会話、ビジネス英語、受験、全て対応可。まずは体験レッスン¥3,000/1hからお気軽にどうぞ👩‍🏫📕

臆病なフィリフヨンカのこと

風速11メートル、嵐の中を帰ってくる。嵐のときに思い出すのはフィリフヨンカのこと。

フィリフヨンカはスウェーデン語で書かれたトーベ・ヤンソン作のムーミンシリーズに出てくる女性のキャラクターだ。彼女は神経質で、繊細で、人付き合いが苦手で、いつもびくびく何かを気にして怯えている。家のインテリアのバランスはこれでよいのか、椅子の位置ひとつをとってみても、ちょっとした埃も、物音も、何もかもが彼女を悩ませ憂鬱な気持ちにさせる。でもある日、大嵐がやってきて、一晩にして全てが壊れ、飛ばされてしまい、そのとき生まれて初めて彼女は心の平穏を得る。そんな話だった。

ムーミンはアニメ化されたことで日本でもとても人気になった。アニメも素敵だけど、原作の小説は私が思うに対象年齢は幅広く子供から大人までで、かなり深くて際どいことも題材にしている。特に孤独について。登場人物たちは、孤独を嫌ったり、抱きしめたり、愛したり、上手く付き合っていたりする。

誰でも、たったひとりで世界と対峙していて、そのやり方は人それぞれだけど、でも皆がたったひとり、という共通点によって、常にたったひとりの仲間たちが、あらゆる場所に遍在しているということになる。

写真は去年ストックホルムで撮ったもの🇸🇪

【💫出演予定💫】
6/4(火)関内Venus
6/7(金)おむすびJAZZ神楽坂💖初出演
7/2(火)関内Venus
7/25(木)関内Venus
8/6(火)関内Ben Tenuto
9/14(土)代々木NARU 💖初出演

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恋愛アナーキスト

ずっと読みたかった川上未映子のエッセイシリーズ第一弾『発光地帯』を入手。

好きでよく読んでいる「雨あがりの少女」のブログの中でこの本の中にある文章が引用されていて、前から気になっていた。
https://note.com/ameagari/n/naec0aa0dade6

このひとは恋愛アナーキストで素敵だなあと思う。これまた大好きで少女時代から私の血肉となっている作家、江國香織は、恋愛は嗜好品だと書いていたけれど、コーヒーや、紅茶や、煙草や、アルコールや、美味しい食事や、絵や、物語や、音楽に、一生を捧げて生きて死んでゆく者もいる。もしかしたらいつか私も恋愛のあれこれを卒業する日が来るのかもしれないけれど、まずはやりきらないと卒業することもできない。どんなに聡明なひとが諭してくれてもなしのつぶてで、私は恋愛と音楽と言葉のアナーキズムに突っ込んでゆく。そうやって、感じ切って、歌い切って、描き切ることをやらないと、この人生はままならないと思っているのだった。

「二十代の初めごろ、すごく好きでちょっとのあいだであってもどうしても離れられなかった人に、独りきりでいることに耐えられないふたりなら、一緒にいつづけることなんてできないんだと何度も何度も言われたけれど、そのときはそうかもしれないと苦しみながら思ったけれど、あれはほんとうのことだったのだろうか? (中略)大事な人とは離れてはいけないのではなかったか。そうでなくてもわたしたち、いつか必ず離れてしまうときはやってくるのだったからたったいま大事に思うのならあれこれあぐねて離れてしまうことはない、世界なんかわたしとあなたでやめればいい、そしてもう一度、わたしとあなたでつくればいい。」
川上未映子『発光地帯』(P31-32中公文庫2014)

【💫出演予定💫】
6/4(火)関内Venus
6/7(金)おむすびJAZZ神楽坂💖初出演
7/2(火)関内Venus
7/25(木)関内Venus
8/6(火)関内Ben Tenuto
9/14(土)代々木NARU 💖初出演

※3年ぶりに英語個人レッスンの受付を再開しました!日常会話、ビジネス英語、受験、全て対応可。まずは体験レッスン¥3,000/1hからお気軽にどうぞ👩‍🏫📕

NOKKOの人魚が素敵すぎる

6/7(金)に初出演のおむすびJAZZ神楽坂。せっかくの機会なので日本語の曲も何曲か歌ってみようかなと選曲中。

NOKKOの『人魚』が良い曲すぎて手が(そして耳が)止まる。朧げながら当時の子供心にも印象的だった。あらためて、言葉も音も、なんて美しい曲なんでしょう。聴いていると泣けて泣けて仕方ない。カフェでひとり泣く変な人です。この曲の中には誰かを好きになったときの切ない気持ちが抽象的なままたくさん詰まっていて、いちどでも大切な誰かを失ったり、失恋したことのある人ならわかるはず(つまりほぼ全人類)。

作曲筒美京平、作詞NOKKO、アレンジがテイ・トウワ!煌めく才能が全てのセクションで発揮された奇跡。

【💫出演予定💫】
6/4(火)関内Venus
6/7(金)おむすびJAZZ神楽坂💖初出演
7/2(火)関内Venus
7/25(木)関内Venus
8/6(火)関内Ben Tenuto
9/14(土)代々木NARU 💖初出演

※3年ぶりに英語個人レッスンの受付を再開しました!日常会話、ビジネス英語、受験、全て対応可。まずは体験レッスン¥3,000/1hからお気軽にどうぞ👩‍🏫📕

アンパンマンミュージアムへ

本日、姪っ子ちゃんに会う為にアンパンマンミュージアムへ。

可愛すぎる姪っ子ちゃん会いたさゆえ、普段できない早起きができる…人間って勝手だわ。

たまーにおばちゃんちに泊まりに来てくれるような子に育ってほしい!

アンパンマンの顔のパンは長蛇の列であきらめ…

エネルギーをチャージさせてもらい、また日々の音楽活動とレッスンに精を出します✨

【💫出演予定💫】
◆6/4(火)関内Venus
寺屋ナオ(Gt)
◆6/7(金)おむすびJAZZ神楽坂💖初出演
古川琴子(Pf&Vo), Sasammy(Vo&Tb)
◆7/2(火)関内Venus
コーラスグループVenus Sistersでの出演、裕美ママBdayイヴ✨
◆ 7/25(木)関内Venus
水野樹里(Vln), 大橋祐子(Pf)
◆ 8/6(火)関内Ben Tenuto
The Lost Sweets企画Blossom Dearie特集🌷
浅川太平(Pf)
◆ 9/14(土)代々木NARU 💖初出演
文舒, 片貝晴美(Vo), 廣田ゆり(Pf) 佐藤きりん(Ba)

※英語個人レッスンの受付を再開しました※
日常会話、ビジネス英語、受験、全て対応可。まずは体験レッスン¥3,000/1hからお気軽にどうぞ👩‍🏫📕